フィリピンで会社を設立し、採用を開始する際に直面する課題のひとつが労務管理です。フィリピンはLabor Code of the Philippines(フィリピン労働法)に基づき、労働者保護の意識が非常に強い国として知られています。
そのため、「うちは数人から数十人程度の小さな会社だから、細かなルールはまだ必要ない」という考えは、後々大きなトラブルを招く要因になりかねません。会社と従業員が良好な関係を築き、不要な労務リスクを減らすための強力な防具となるのが「就業規則」です。
本記事では、フィリピン進出を検討中、あるいはすでに進出されている日系企業の皆様に向けて、就業規則の役割や実務上の注意点、作成のポイントについてわかりやすく解説します。
フィリピンにおける就業規則とは
Employee Handbook / HR Handbookの位置づけと呼称
日本の「就業規則」にあたるものは、フィリピンの実務上、Employee Handbook(従業員ハンドブック)やHR Handbook(人事ハンドブック)と呼ばれるのが一般的です。また、特に規律や懲戒ルールに焦点を当てたものをCode of Discipline(懲戒規定)と呼ぶこともあります。
これらは、会社が従業員に対して期待する行動規範、労働条件、福利厚生、そして違反した場合のペナルティなどをまとめた「会社と従業員の間のルールブック」としての役割を果たします。
作成は「義務」か「任意」か?行政機関への届出について
日本では、常時10人以上の労働者を使用する場合に就業規則の作成と労働基準監督署への届出が義務付けられていますが、フィリピンの労働法において、Employee Handbook(就業規則)そのものの作成や、DOLE(Department of Labor and Employment、労働雇用省)への一律の提出・届出は義務付けられていません。その意味では、作成自体は「任意」と言えます。
ただし、DOLEはセクシャルハラスメント防止規定、薬物乱用防止規定、結核予防プログラムなど、特定の個別ポリシー(Company Policies)の策定を企業規模に関わらず義務付けています。一般的には、これらの必須ポリシーをEmployee Handbook(就業規則)の一部として組み込むか、付属資料としてまとめる運用が行われます。
小規模企業における必要性
「従業員が数名〜十数名しかいないので、就業規則を作るほどでは…」とお考えの経営者の方もいるかもしれません。しかし、小規模企業であっても、簡易的なもので構いませんので就業規則の作成を推奨します。
フィリピンでは、従業員が会社に対して不満を持った場合、NLRC(National Labor Relations Commission、国家労働関係委員会)やSENA(Single Entry Approach、単一窓口調停制度)といった労働機関に申し立てるケースが珍しくありません。労働者保護の観点から、会社側は「従業員がルールを知っていたこと」「公平に処分を下したこと」を客観的な証拠をもって証明する責任を負います。明文化されたルールがない場合、会社側が圧倒的に不利な立場に立たされるリスクがあります。
雇用契約書と就業規則の関係性
それぞれの役割と違い
就業規則と並んで重要なのがEmployment Contract(雇用契約書)です。この2つは似て非なる役割を持っています。
- Employment Contract(雇用契約書): 従業員個人と会社の間で交わされる個別の契約です。基本給、役職、勤務地、業務内容など、個人の労働条件に特化した内容を定めます。
- Employee Handbook(就業規則): 会社全体に適用される普遍的なルールです。組織全体の規律、出退勤のルール、各種休暇制度の詳細、懲戒処分の基準などを定めます。
雇用契約書だけでは不十分な理由
「雇用契約書にすべて書いておけば良いのではないか」というご質問をいただくことがあります。しかし、何十ページにも及ぶ会社の細かな規律や懲戒ルールを、個別の雇用契約書にすべて盛り込むことは実務上現実的ではありません。
一般的な運用としては、雇用契約書の中に「従業員は、会社の就業規則およびその他すべての社内規定を遵守しなければならない」という一文を盛り込み、相互を連携させる形をとります。これにより、契約書はシンプルに保ちつつ、詳細なルールは就業規則でカバーすることが可能になります。
フィリピン特有の労務リスクと解雇への備え
Just Cause(正当な事由)による解雇との関係
フィリピンは、会社都合で従業員を解雇することのハードルが非常に高いと一般的に認知されています。従業員を合法的に解雇(Termination)するためには、労働法で定められたJust Cause(正当な事由:重大な就業規則違反、著しい職務怠慢、詐欺行為など)またはAuthorized Cause(認定された事由:人員削減、倒産など)が必要です。
問題行動を繰り返す社員をJust Cause(正当な事由)で解雇するためには、「就業規則のどの条項に違反したか」を明確に示す必要があります。就業規則がない、あるいは曖昧な場合、不当解雇(Illegal Dismissal)として訴えられ、多額の未払い賃金や損害賠償、復職を命じられるリスクがあります。
無断欠勤や遅刻への対応
フィリピンの実務において、小規模企業でも頻繁に発生するのが無断欠勤や常習的な遅刻です。「3日連続で無断欠勤したらどうなるか」「月に何回遅刻したらどのような処分になるか」を就業規則で明確に定義しておくことが不可欠です。感情的に「明日から来なくていい」と告げることは不当解雇のリスクが高いため、就業規則に基づき、記録を残しながら段階的にペナルティ(Disciplinary Action)を与えていくプロセスが会社を守ることになります。
就業規則に盛り込むべき重要項目
労働条件の基本ルール
- 勤務時間と休憩: 始業・終業時間、休憩時間(通常1時間+メリエンダ)の規定。
- 給与計算と支払日: 毎月2回の給与支払い(例:15日と月末)のサイクルや、残業代(Overtime Pay)の事前申請ルール。
- 各種Leave(休暇): Service Incentive Leave(SIL:有給休暇)の付与条件や、Sick Leave(病気休暇)、Maternity/Paternity Leave(産休・育休)などの取得手続き。
懲戒処分(Disciplinary Action)の段階と種類
就業規則の要となる部分です。違反行為の重さや繰り返し回数に応じて、段階的な処分を明記します。
- Verbal Warning(口頭注意:記録は残す)
- Written Warning / Reprimand(書面による警告)
- Suspension(停職・無給)
- Dismissal / Termination(解雇)
また、処分を下す際にはDue Process(適正手続)を守るための手順(NTE:Notice to Explainという弁明通知の送付から、ヒアリングの実施、最終決定通知の流れ)を記載しておくことが重要です。
実務上トラブルになりやすい項目
日系企業がフィリピンで直面しやすい問題として、以下のような項目も盛り込んでおくことをお勧めします。
- Vale(給与の前借り)のルール: フィリピンでは冠婚葬祭などで給与の前借りを要求されることがよくあります。原則禁止とするか、一定の条件(勤続年数や上限額)を設けるか明記します。
- 会社のPC・備品等の取り扱い: 会社支給品の私的利用禁止や、退職時の返却義務。
- SNS利用や機密保持: 勤務時間中の個人的なSNS利用の制限や、会社の内部情報をSNSに投稿することの禁止(実務上、これに関するトラブルは非常に多いです)。
運用・周知と「改定」における実務上の注意点
就業規則は「作って終わり」ではありません。適切な運用が伴って初めて効力を発揮します。
従業員への周知方法(メールや社内ポータルでの展開は有効か?)
「従業員にメールでPDFを送った」「社内の共有フォルダ(ポータル)にアップロードした」という企業もあります。周知の方法としてこれらを活用すること自体は全く問題ありません。
しかし、労務トラブルになった際、従業員から「メールを見ていなかった」「ポータルのどこにあるか知らなかった」と主張されると、会社側は苦しい立場になります。これを防ぐため、実務上はAcknowledgment Receipt(受領書・同意書)に署名を取得することが推奨されます。オンラインでの展開が中心の場合でも、「就業規則を読み、内容を理解し、遵守することに同意する」旨の文面に電子署名をもらうか、明確な同意の返信履歴(ログ)を保存しておく必要があります。確実性を期するためには、入社時に紙の受領書に直筆サインをもらうのが最も安全な実務と言えます。
就業規則の「改定」に関する手続き
会社の成長やDOLEのガイドライン変更に伴い、就業規則を改定(アップデート)する必要が出てきます。ここで注意すべきなのが、フィリピン労働法におけるNon-Diminution of Benefits(既得利益の不減額原則)です。
これは「会社が一度与えた利益や福利厚生を、一方的に取り上げたり減らしたりすることはできない」という原則です。例えば、「これまで有給休暇を年間15日付与していたが、業績が厳しいので法定の5日に減らす」といった就業規則の改定は、原則として従業員の同意がない限り違法となります。合法的に改悪のプロセスを進めるためには、変更内容が法律や上記の原則に反していないかを確認し、改定後には再度全従業員から新しいAcknowledgment Receipt(受領書)を取得する必要があります。
専門家に作成・改定を依頼した場合の費用目安
就業規則の作成は、インターネット上のテンプレートをつぎはぎして自社で作ることも不可能ではありませんが、自社の実態に合っていない条項が残っていたり、最新の労働法に準拠していなかったりするリスクがあります。そのため、多くの日系企業は外部の専門家に依頼しています。
日系ファームや法律事務所に依頼する場合の費用目安
日系の会計事務所・法律事務所・コンサルティングファーム等に、Employee Handbook(就業規則)の新規作成、あるいは既存のもののレビュー・改定を依頼した場合の相場観は、一般的に₱100,000〜300,000程度(内容のボリュームや、日英併記の有無、自社向けのカスタマイズ度合いによる)となるケースが多いです。ゼロから完全オーダーメイドで大規模なものを作成する場合は、それ以上になることもあります。
これは単なる翻訳やテンプレートの提供ではなく、フィリピンの労働法に精通した専門家が、企業の業態や規模に合わせて「会社を守るための防波堤」として法的な建付けを行うためです。万が一の労働訴訟で発生する弁護士費用や和解金、経営陣の時間的損失を考慮すれば、決して高い投資ではありません。
おわりに
フィリピンにおけるEmployee Handbook(就業規則)は、単なるルールブックではなく、「会社と従業員の良好な関係を守り、事業に集中するための投資」です。
当社でも就業規則の作成を承っております。就業規則の新規作成や既存規則の見直しについてご不明な点がございましたら、お気軽にご相談ください。