はじめに – 日比租税条約が約46年ぶりに全面改正

2026年5月28日、東京において「所得に対する租税に関する二重課税の除去並びに脱税及び租税回避の防止のための日本国とフィリピン共和国との間の条約」(以下「新条約」)の署名が行われました。日本とフィリピンの間の租税条約は1980年に発効し、2008年に一部改正が行われましたが、今回はそれを全面的に改正するものです。約46年ぶりの大幅な刷新となります。

改正の背景には、大きく二つの流れがあります。一つは、OECDが主導するBEPS(Base Erosion and Profit Shifting:税源浸食・利益移転)行動計画への対応です。現行条約はOECDモデル条約の旧版をベースとしており、近年の国際課税の考え方から大きく乖離していました。新条約はBEPS対応を反映した2017年版OECDモデル条約に準拠した内容となっています。もう一つは、両国間の投資・経済交流のさらなる促進です。フィリピンへの日本企業の進出が活発化するなか、より現代的な枠組みで二重課税を排除し、ビジネス環境を整備することが求められていました。

本記事では、新条約の主な改正ポイントを整理し、フィリピンに進出する日系企業にとっての実務上の影響についても解説します。

改正の全体像

新条約による主な改正は、以下の6点に整理できます。

  1. 投資所得(配当・使用料)の源泉税率の見直し
  2. 事業利得(PE帰属利得)の計算ルールの見直し
  3. 恒久的施設(PE)規定の見直し
  4. 条約の濫用防止措置(PPT条項)の導入
  5. 相互協議手続における仲裁制度の新設
  6. 情報交換・徴収共助の拡充

旧条約がシンプルな規定にとどまっていたのに対し、新条約はBEPS対応の観点から複雑かつ精緻な内容となっています。特にPE規定と濫用防止措置は、これまでのフィリピンでの事業形態やグループ内取引の設計に影響を与える可能性があり、実務上の注意が必要です。

配当・利子・使用料の源泉税率の変更

新条約では、投資所得に対する源泉地国(フィリピンまたは日本)での課税について、以下のとおり税率が変更されます。

所得の種類現行条約新条約
配当10%(議決権10%以上・6か月以上保有)
15%(その他)
5%(持分90%以上・6か月以上保有)
10%(持分10%以上・6か月以上保有)
15%(その他)
利子免税(政府受取等)
10%(その他)
免税(政府受取等)
10%(その他)
使用料15%(映画フィルム等)
10%(その他)
10%(一律)

(注)配当における「持分」は、日本法人が支払う場合は議決権、フィリピン法人が支払う場合は資本を指します。

日系企業への影響

配当については、新たに5%の最低税率区分が設けられた点が注目されます。フィリピン子会社の利益を日本の親会社に送金する際、従来は持分10%以上・6か月以上保有で10%の源泉税が課されていましたが、新条約では持分90%以上・6か月以上保有という条件を満たせば5%まで引き下げられます。完全子会社を有する日系グループにとっては、コスト削減効果が見込まれます。

使用料については、映画フィルム等に対する15%が廃止され一律10%に統一されますが、これにより好影響のある企業は限定的でしょう。

なお、これらの条約上の軽減税率を享受するためには、BIRに対して軽減税率の適用申請(TTRA/RFC)を行い、Certificate of Entitlement to Treaty Benefit(租税条約特典適格証明書)を取得することが原則として必要です。手続きを怠ると条約の恩恵を受けられないケースがありますので、実際の送金前に確認が必要です。この点は従来から変更ありません。

事業利得(PE帰属利得)の計算ルールの見直し

財務省が「新条約の主なポイント」の筆頭に掲げているのが、この事業利得に関する規定です。一見するとPE認定(「どこにPEがあるか」)の問題と混同されやすいですが、事業利得の規定は「PEがあると認定された場合に、そのPEにいくらの利得を帰属させるか」を定めるものです。

旧条約と新条約の違い

旧条約では、PE帰属利得の計算について「独立企業原則」を基本としつつも、本店・支店間での経費配分(総利益の按分方式の採用を一部許容)や、内部取引の認識範囲が限定的でした。

新条約では、PEを「本店から完全に分離・独立した企業」として取り扱い、本店との間で行われるすべての内部取引を網羅的に認識した上で、独立企業原則を厳格に適用してPE帰属利得を計算することとされました。具体的には、PE帰属利得の計算において、以下の3要素を分析することが求められます。

  • 機能分析: PEがグループ全体の中でどのような機能を担っているか
  • 資産分析: PEがどの資産を使用しているか(無形資産・有形資産を含む)
  • リスク分析: PEがどのようなリスクを引き受けているか

これらの分析に基づき、「もしPEが独立した企業であったとしたら本店との取引においていくらの利得を得ていたか」を算定し、その額をPEの課税所得とします。

日系企業への影響 -「本社受注・支店実務」型の事業モデルに直結する問題

この改正が特に影響するのが、例えば日本本社(本店)名義でフィリピン国内のプロジェクトを受注し、実際にプロジェクトを遂行するのがフィリピン支店等のケースです。フィリピン支店がその実務(施工管理・技術支援・現場監督など)を担っているにもかかわらず、プロジェクトの売上・収益を日本本社が全額計上し、フィリピン支店に適切な収益配分が行われていないケースが時折見受けられます。

旧条約の解釈・運用のもとでは、こうした形態について「PEがあること」は認めつつも、帰属利得の計算が曖昧なまま処理されているケースが見受けられました。新条約のもとでは、フィリピン当局は「PEが果たしている機能・使用している資産・引き受けているリスク」を分析し、それに見合った利得がフィリピンで申告されているかを確認することが可能になります。

たとえば、フィリピン支店が以下のような機能を実質的に担っている場合、その機能に対応した相当額の利得がフィリピンのPEに帰属すべきとBIRに主張されるリスクがあります。

  • 現地での入札・見積活動、顧客折衝
  • プロジェクトの施工管理・品質管理・進捗管理
  • 現地人材の採用・管理、サプライヤーとの交渉
  • 現地での知的財産・ノウハウの活用

すなわち、日本本社が収益のすべてを計上していても、フィリピン支店が実質的な事業機能の多くを担っていれば、その機能に見合った収益がフィリピンのPEに帰属すべきとの課税リスクが生じます。BIRが追徴課税を行った場合、日本側でも二重課税が生じる可能性がありますが、その解消は新設された相互協議・仲裁制度に委ねられることになります。

実務上の対応

フィリピンに支店を有する企業、あるいは現地で役務提供を行っている企業は、以下の点を改めて確認することをお勧めします。

  • 日本本社とフィリピン支店の間で機能・資産・リスクをどのように分担しているか
  • その分担に見合った利得配分(支店への内部報酬の設定)が行われているか
  • フィリピン支店のBIRへの申告内容(年次法人税申告等)が実態と整合しているか

なお、本規定はPEの「認定」(第五条)とは別の問題です。すでにPEが存在すること自体は認識しつつ、「帰属利得の計算が適切か」という点が今後の税務調査で問われる場面が増えると考えられます。

恒久的施設(PE)規定の見直し

新条約における重要な改正の一つが、PE規定の刷新です。旧条約のPE規定はOECDモデル条約の旧版に基づくシンプルなものでしたが、新条約ではBEPS行動計画の成果を反映した現代的な規定に改められました。フィリピンに支店・駐在員・現地代理人を置く日系企業にとって、直接影響しうる内容が複数含まれています。

PEに関しては、リスク要素として企業にとって関心の高い事項ですが、実際にPE規定を根拠に税務調査等で指摘されるケースは、これまでの実務上は全くと言って良いほどありませんでした。今回の見直しにより、実際の運用がどの程度変化するか、今後注視すべきポイントです。

役務提供PEの要件変更

旧条約では、コンサルタントの役務や建設・据付工事に関連する監督役務の提供に限り、「いずれかの12か月の間に合計6か月を超える期間」の活動でPEが認定される規定がありました。

新条約では、この役務提供PEの対象がコンサルタントを含む役務提供一般に拡大されました。また、認定要件も「いずれかの12か月において合計183日を超える期間」に変更されています。

日系企業への影響

旧条約では対象外だった技術支援、ITサービス、業務管理支援なども、新条約では役務提供PEの対象となりうる点に注意が必要です。フィリピンへの長期出張者や、現地での役務提供を行う担当者の滞在日数管理が重要になります。日数のカウントは「いずれかの12か月」という基準であり、暦年ではなく任意の12か月間を基準とする点も実務上の留意点です。

アンチ・フラグメンテーション・ルールの導入

旧条約では、保管・展示・引渡し・情報収集など、準備的・補助的な性格の活動はPEから除外されていました。この規定を利用し、活動をグループ各社に分散させることでPE認定を回避する手法が問題視されていました。

新条約では、密接に関連する企業がグループ内の複数拠点で行う活動を合算してPE判定する規定(いわゆるアンチ・フラグメンテーション・ルール)が新設されました。個々の活動が準備的・補助的であっても、これらを組み合わせた全体が準備的・補助的な性格でない場合は、PEが認定される可能性があります。

日系企業への影響

フィリピン国内で、在庫管理・受発注・アフターサービス・技術支援といった業務をグループ各社に機能分担させているケースでは、それぞれ単体では準備的・補助的な活動とみなせても、合算するとPE認定につながるリスクがあります。グループ構造と現地での実際の業務内容を改めて精査することをお勧めします。

みなし代理人PEの拡張

旧条約では、一方の締約国内で企業に代わって行動する者が「当該企業の名において契約を締結する権限を有し、かつこれを反復して行使する場合」にPEが認定されていました。

新条約では、契約締結権限を直接持たなくとも、「契約締結に向けて反復して主要な役割を果たす者」もPEを構成すると規定されました。契約の最終締結が日本本社であっても、フィリピン現地での担当者が実質的に交渉・折衝を主導しているケースでは、PE認定のリスクが生じる可能性があります。

日系企業への影響

現地に常駐する駐在員や現地スタッフが、顧客との契約条件の交渉を主導している場合は注意が必要です。形式的に「契約は本社が締結する」という建付けであっても、実態に即してPE認定される可能性があります。現地担当者の業務内容・権限範囲の整理と、社内規程の見直しが求められます。

独立代理人除外の厳格化

旧条約では、独立代理人(自己の事業の通常の方法で企業のために行動する者)は、たとえ企業に代わって行動していてもPEから除外されていました。

新条約では、専ら又は主として密接に関連する企業のために行動する者は、独立代理人とはみなされないという制限が加えられました。グループ内の販売子会社や中間会社が親会社の代わりに契約交渉・受注活動を行うケースでは、独立代理人の除外規定が適用されなくなる可能性があります。

日系企業への影響

グループ内に設置した現地販売会社や調達会社が、実質的に親会社・グループ会社の業務を専属的に受託している場合、旧条約では独立代理人として除外されていたPEリスクが、新条約では認定されるリスクに変わります。現地法人の機能・取引関係の見直しが必要になるケースがあります。

条約の濫用防止措置(PPT条項)の導入

新条約では、条約の特典の濫用を防止するため、Principal Purpose Test(以下「PPT」)条項が新たに導入されました。PPT条項とは、ある取引・仕組みの「主要な目的の一つ」が条約特典(免税・軽減税率)を享受することにあると認められる場合、その特典を認めないとする規定です。旧条約にはこのような規定はありませんでした。

日系企業への影響

条約特典を得ることが目的の一つとなっているスキーム、たとえば低税率国を意図的に経由した配当や、実体のない中間持株会社の利用などは、PPT条項によって特典が否認されるリスクがあります。正当な事業目的に基づくストラクチャーであれば問題ありませんが、課税当局から問われた際に主要な目的が「事業上の理由である」ことを説明・立証できる準備をしておくことが重要です。グループの組織再編や持株構造を設計・変更する際には、PPT条項の観点からの検討を忘れないようにしてください。

仲裁制度・相互協議手続の強化

旧条約にも相互協議手続(Mutual Agreement Procedure:MAP)の規定はありましたが、両国の税務当局間の協議で解決できない場合の最終的な手段は設けられていませんでした。

新条約では、両国の税務当局間の協議により2年以内に解決されない場合、第三者から構成される仲裁委員会に付託し、その決定に従って解決する仲裁制度が新設されました。

日系企業への影響

移転価格税制の適用による二重課税や、PE帰属利得をめぐる課税争いが生じた場合に、最終的な救済手段が明文化されたことは大きな前進です。従来は税務当局間の協議が膠着した場合でも打つ手がなく、二重課税が解消されないまま放置されるリスクがありました。仲裁制度の導入により、納税者の予測可能性と保護が高まると期待されます。フィリピン子会社と日本本社との間に移転価格上のリスクを抱えている企業には、特に意義のある変更です。

情報交換・徴収共助の拡充

新条約では、国際的な脱税及び租税回避に効果的に対処するため、日比両国間の租税に関する情報交換の対象となる租税及び事案が拡大されます。また、旧条約にはなかった租税債権の徴収共助(一方の国が認定した租税債権を、他方の国が協力して徴収する制度)が新たに導入されます。

日系企業への影響と今後の動向

この規定は直接的な税率変更ではないため、すぐに実務上の変化として現れるわけではありませんが、中長期的には重要な意味を持つと考えられます。日本とフィリピンの税務当局がより緊密に情報を共有するようになれば、一方の国での申告内容や取引情報が他方の当局にも共有されるようになります。たとえば、日本法人がフィリピンで受け取った所得の申告状況や、フィリピン法人への送金内容などが、両国当局の間で照合されるケースが想定されます。また、徴収共助の導入により、フィリピンで認定された未払税金について日本側での徴収が行われる、あるいはその逆もあり得ます。日比間でのクロスボーダー取引の透明性への要請は今後ますます高まると考えられ、申告内容の整合性を日比両国で確保しておくことが一層重要になります。

発効時期と適用開始スケジュール

新条約は2026年5月28日に署名が完了しましたが、実際に効力が生じるまでにはさらに手続きが必要です。日本側では国会の承認が必要であり、承認後に外交上の公文交換が行われ、その交換の日の後30日目に条約が発効します。適用開始の時期は以下のとおりです。

  • 日本側: 条約が効力を生ずる年の翌年1月1日以後に開始する課税年度から適用
  • フィリピン側: 源泉徴収税については条約が効力を生ずる年の翌年1月1日以後に取得される課税対象額から適用。その他の租税については翌年1月1日以後に生ずる所得から適用

現実的なスケジュールとして、国会承認・公文交換の手続きを経た上で、早くとも2027年1月1日からの適用開始が見込まれます。ただし、国会での審議状況によってはさらに遅れる可能性もあります。なお、情報交換の規定は条約効力発生日から、徴収共助の規定は両国政府が外交上の公文の交換によって合意する日から適用される点も確認しておく必要があります。

おわりに

日比新租税条約は、二重課税リスクの低減と投資所得への課税軽減という点で、フィリピン進出日系企業に恩恵をもたらす内容を含む一方で、PE認定ルールの刷新・PPT条項の導入・情報交換の強化という形で、課税当局の執行力を高める方向でもあります。従来のストラクチャーや現地での業務運営が新たなリスクを内包していないか、発効前のこの期間に改めて見直しておくことが重要です。

租税条約に基づく軽減税率の適用手続き、PE判定の影響評価、移転価格への対応など、個別の状況に応じた実務判断が必要になる場面も多くあります。フィリピンでの税務・会計対応についてお困りの点がございましたら、弊社までお気軽にご相談ください。