移転価格税制とは
グループ企業間で商品の売買やサービスの提供、資金の貸し借りを行う際には、必ず「いくらで取引するか」という価格設定が伴います。この価格を「移転価格(Transfer Price)」と呼びます。
問題になるのは、この価格がグループ内で恣意的に操作された場合です。たとえば、フィリピン子会社が日本親会社に対して原価を大幅に下回る価格で商品を販売したり、逆に過大な報酬を支払ってサービスを購入したりすることで、フィリピン側の課税所得を意図的に圧縮することができてしまいます。利益を税率の低い国に移転することで、グループ全体の税負担を軽減するこのような行為が、世界中の税務当局が「移転価格」に目を光らせる根本的な理由です。
この問題に対処するために設けられたのが移転価格税制であり、中心的な概念が「独立企業間価格(Arm’s Length Price)」です。独立企業間価格とは、関係のない第三者同士が通常の市場条件のもとで取引した場合に成立したであろう価格を指します。移転価格税制は、グループ内取引の価格がこの独立企業間価格と一致しているかどうかを問うものです。
フィリピンでは、National Internal Revenue Code(いわゆる税法、以下「NIRC」)第245条を根拠法とし、RR No. 2-2013が移転価格の基本的な枠組みを定めています。規定の内容はOECDの移転価格ガイドラインに沿ったものとなっており、国際的なスタンダードとの整合性が図られています。
フィリピンの移転価格税制──他国と比べた現状
移転価格税制は多くの国が導入していますが、税務当局の執行強度は国によって大きく異なります。日本・米国・中国などの主要国では、移転価格専門の調査チームが組織され、多国籍企業グループを対象とした体系的な調査が日常的に行われています。
これに対し、フィリピンの現状はやや異なります。BIRは2019年にRAMO No. 1-2019を発出し、移転価格調査の手順・手法を整備しました。しかし、2025年1月時点の実務家調査(Chambers & Partners)によれば、「移転価格のフル専門調査をBIRが単独で展開できる体制には、現時点ではまだ至っていない」とされています。移転価格に関する指摘は、通常の税務調査(定期調査)の中で個別論点として浮上するケースが大半であり、移転価格を主軸とした集中的な専門調査は、まだ限定的な段階にとどまっています。
ただし、こうした現状に安心して手を抜いてよいわけではありません。2024年1月に発出されたRMC No. 5-2024は、非居住外国法人がフィリピン国内で利用されるサービスを提供した場合に源泉徴収税およびVATを課すという内容で、クロスボーダーのサービス取引に対する審査が強まる方向性を示しています。BIRは国際機関の支援を受けながら移転価格の執行能力を高めており、今後の動向には引き続き注意が必要です。
独立企業間価格から逸脱するとどうなるか
BIRが税務調査の過程でグループ内取引の価格が独立企業間価格から逸脱していると判断した場合、課税所得を修正し追徴課税を行う権限を持っています。具体的には、不足税額に加えて25%のサーチャージ(加算税)と年12%の延滞利息が課されることになります。
特に注目されやすいのは、サービス取引・ロイヤルティ・グループ内ローン(親子ローンなど)です。これらは物品の売買と異なり、市場価格が明確に存在しないケースが多く、価格の操作余地が大きいとみなされます。BIRが移転価格を問題にする際の典型的なパターンとして、実際の調査事例では「グループ内ローンへの利息設定(ゼロ金利や著しく低い金利)」や「ベンチマーキング分析で採用した比較対象の適切性」が指摘されたケースが報告されています。
フィリピンの移転価格コンプライアンスは「2段階」
フィリピンの移転価格コンプライアンスは、大きく分けて2つの段階から構成されています。自社がどの段階に該当するかを正確に把握することが、実務上の出発点です。
第1段階──BIR Form 1709の提出
以下の3つの要件をすべて満たす法人は、BIR Form 1709(Annual Transfer Pricing Documentation Form)を年次法人税申告書(Annual Income Tax Return、以下「AITR」)に添付して提出する義務があります。
- AITRの提出義務があること
- 当該課税年度中に国内外の関連者との取引があること
- 以下のいずれかに該当すること
- Large Taxpayer(大規模納税者)として登録されている
- 税制インセンティブの適用を受けている
- 当期および直前2期連続して純営業損失(Net Operating Loss)を計上している
- 上記に該当する関連者との取引がある
この要件はRR No. 34-2020およびRMC No. 54-2021に基づくものです。フィリピン進出直後で規模が小さく、Large Taxpayerに該当しない法人であっても、税制インセンティブ(PEZA・BOI登録など)を受けている場合は対象になる点に注意が必要です。また、2期連続で純営業損失が生じている場合や、取引のある関連者が上記に該当する場合も対象となる点は見落としやすいため、同様に注意が求められます。
第2段階──移転価格文書(TPD)の作成
第1段階のBIR Form 1709提出義務がある法人のうち、さらに以下のいずれかの金額基準に該当する場合は、Transfer Pricing Documentation(以下「TPD」、移転価格文書)の作成が必要です。
- 年間総収入が1億5,000万ペソ超、かつ国内外の関連者との総取引額が9,000万ペソ超
- 同一関連者との物品売買取引が年間6,000万ペソ超
- 同一関連者とのサービス取引・利息支払・無形資産の利用その他の関連者間取引が年間1,500万ペソ超
- 直前課税年度においてTPD作成が必要だった場合
提出タイミングについて: RMC No. 76-2020は、TPDを「同時性(contemporaneous)」のある文書として準備することを求めています。具体的には、AITRの申告期限(暦年決算の場合、翌年4月15日)までに作成済みである必要があります。ただし、BIRへの添付・提出そのものは義務ではありません。BIRから税務調査(Letter of Authority)に基づく提出要求を受けた場合に、30日以内(書面にてメリトリアスな理由が認められる場合は延長可能)に提出することが求められます。
TPD作成の実務的な判断
TPD作成義務の要件に該当する法人であっても、実際に作成するかどうかは費用対効果の観点から慎重に判断することを推奨します。
TPD作成コスト
TPDの作成は、移転価格を専門とする業者への依頼が実質的に必須です。ベンチマーキング分析には、Bureau van DijkのOrbisなど財務データベースへのアクセスと分析ツールが必要で、社内で対応できる性格のものではありません。費用は取引の複雑さや分析対象の数にもよりますが、規模の小さな法人でも最低50万ペソ程度、ある程度の事業規模になれば100万ペソ以上になることが一般的です。
継続的な維持コスト
TPDは一度作成して終わりではなく、毎年の維持が前提となります。RMC No. 76-2020が求める「同時性(contemporaneous)」の要件を満たし続けるためには、年度ごとの見直しが不可欠です。実務上は、作成翌年・翌々年はマイナーアップデート(財務数値の更新・比較対象の検証)、3年目以降はベンチマーキングスタディそのものを作り直すメジャーアップデートが必要になるケースが多く、継続的なコストが発生します。つまり初年度に100万ペソかけて作成したとしても、それ以降も毎年維持費用が見込まれることを前提に検討する必要があります。
リスクの期待値との比較衡量
TPD作成が義務化される規模に達した法人であっても、移転価格を主軸とした専門調査を受ける確率は現時点では限定的です。調査リスクの期待値とTPD維持コストを冷静に比較衡量したうえで判断することが、現実的な経営上の選択です。
ただし、仮にTPDを作成しないという判断をした場合でも、グループ内取引の価格根拠を社内で最低限文書化しておくことは別の話です。契約書・業務報告書・請求書・関連するメールのやり取りといった一次資料を整備しておくことで、万一調査を受けた場合の初期対応がまったく異なります。
独立企業間価格の実務──具体例
グループ内サービス取引(外注・業務委託)
フィリピン法人が日本親会社などからグループ内業務を受託し、コストにマークアップ(利益上乗せ)をして請求するというスキームは、日系企業のフィリピン法人において非常によく見られるパターンです。営業支援・市場調査・バックオフィス業務・ITサポート・出資先の管理などが典型例です。
この場合、移転価格の算定にはコスト・プラス法が広く用いられます。発生コストに一定のマークアップ率を乗じて移転価格とする方法で、サービス提供側のコスト構造が比較的明確な場合に適しています。
マークアップ率の考え方
BIRはRR 2-2013・RAMO No. 1-2019のいずれにおいても、具体的なマークアップ率のパーセンテージを規定していません。OECDガイドラインでは「低付加価値サービス」に対して5%のセーフハーバー・マークアップを認めていますが、BIRはこの区分を公式に採用しておらず、取引規模・性質を問わず個別の比較可能性分析を求める立場です(Chambers & Partners 2025年確認)。
実務上、ルーティン的なバックオフィスやITサポートなど付加価値が限定的なサービスについては、5〜15%程度のマークアップが合理的な範囲の目安として参照されることが多いです。ただし、これはあくまで実務慣行上の参照値であり、BIRに説明を求められた場合には、合理的な根拠とともに説明責任を果たす必要があります。
Service Benefit Testの重要性
マークアップ率と並んで重要なのが「そのサービスが実際に提供され、受益者に経済的価値をもたらしたか」という点の証明です(Service Benefit Test)。BIRは移転価格の調査において、サービスの実態があるかどうかを確認します。契約書・業務報告書・成果物・請求書・関連するメールのやり取りといったエビデンスを体系的に整備しておくことが、実務上の最も有効な防衛策です。
グループ内ローン(Inter-company Loan)
親会社から子会社への資金融通(親子ローン)や、グループ内での資金の貸し借りも移転価格の対象となります。独立企業間であれば当然に発生するはずの利息を設定しない、あるいは著しく低い金利に設定することは、BIRの指摘対象になり得ます。実際に、通常の税務調査においてゼロ金利の親子ローンに対して利息相当額の課税所得認定が行われた事例が報告されています。
妥当な金利設定に際して考慮すべき事項
適切な金利を設定するにあたっては、以下の要素を総合的に考慮する必要があります。
- 通貨: PHP建て・USD建て・JPY建てでは参照すべき基準金利が異なります。PHP建てであればBSP(Bangko Sentral ng Pilipinas、フィリピン中央銀行)の政策金利、USD建てであればFRB(米国連邦準備制度)のFFレートやSOFR(Secured Overnight Financing Rate)、JPY建てであれば日銀の政策金利などを起点とします。
- 期間: 短期(1年未満)と長期(5年超など)では信用リスクの性格が異なり、一般的に期間が長いほど金利は高くなります。
- 借り手の信用度: 独立企業間の取引であれば、財務基盤が脆弱な企業ほど高い金利が要求されます。グループ内ローンであっても、借り手の信用力を客観的に評価した記録を残しておくことが重要です。
- 担保・保証の有無: 担保や保証がある場合は、信用リスクが低減されるため、金利を低く設定できる根拠になります。
- 商業銀行の貸出金利: フィリピンの市中銀行が同種の借り手に対して実際に適用している貸出金利のレンジも重要な参照データです。
RAMO No. 1-2019では、グループ内ローンの金利の独立企業間性の検証にはCUP法(Comparable Uncontrolled Price Method、独立価格比準法)を用いることが原則とされており、同等の信用力の借り手に対する市場金利をベンチマークとして比較することが求められます。
実務上の注意点として、「BSPの公表金利をそのまま適用した」という単純な説明だけでは不十分です。借り手の信用力・期間・通貨・担保の有無に応じた比較可能性調整が必要とされています。当然ながら、リスクが高ければ設定金利も高くあるべき、という考え方が原則です。設定した金利の根拠を、上記の各要素を踏まえた形で文書化しておくことを強く推奨します。
対応の優先度──「必ずやること」と「やっておいた方が良いこと」
フィリピンの移転価格税制への対応は、企業の規模や取引の性質によって求められるレベルが異なります。以下のとおり整理しておくと、優先度が明確になります。
必ずやること
- BIR Form 1709の提出義務を確認する。 PEZA・BOI登録法人をはじめ、税制インセンティブの適用を受けている法人は、取引規模にかかわらずBIR Form 1709の提出対象になる可能性があります。自社が該当するかどうかを確認し、提出義務がある場合はAITRへの添付を確実に行ってください。
- グループ内取引の価格根拠を最低限記録しておく。 正式なTPDの作成に至らない場合でも、取引条件・価格根拠・契約書・請求書・業務報告書などの一次資料は整理して保管しておくことが不可欠です。BIRからの初期の情報提供要求(RAMO No. 1-2019では5営業日以内の提出が求められる場合があります)に対応できる状態を維持してください。
やっておいた方が良いこと
- グループ内サービスのエビデンスを体系的に整備する。 Service Benefit Testの観点から、サービスが実際に提供されたことを示す書類(業務報告書・成果物・承認記録など)を、課税年度ごとに整理する習慣をつけることを推奨します。
- グループ内ローンの金利設定根拠を文書化する。 貸付実行時に、通貨・期間・借り手の信用度・BSP政策金利・市中銀行貸出金利などを参照した金利設定の根拠メモを作成し、契約書とあわせて保管しておくことで、調査時の説明責任を果たしやすくなります。
- TPD作成要件の金額基準に近づいてきた段階で専門家に相談する。 総収入1億5,000万ペソ超かつ関連者間総取引額9,000万ペソ超、またはサービス取引1,500万ペソ超などの基準が視野に入ってきた段階で、移転価格専門家にご相談ください。費用対効果を含めた対応方針の検討に、早めに着手することを推奨します。
おわりに
フィリピンの移転価格税制は、制度の枠組みとしてはOECDガイドラインに準拠した体系が整備されています。一方で、現時点での執行強度は日本や中国などの主要国と比べると限定的であり、フィリピン進出企業にとっては相対的にリスクは低い状況といえます。
ただし、RMC No. 5-2024に代表されるようにクロスボーダー取引への審査が強化される方向にあることは明らかであり、制度を完全に無視することはリスクです。重要なのは、「必ずやること」を確実に押さえたうえで、自社の規模・リスク・コストを踏まえた現実的な対応方針を持つことです。
BIR Form 1709の申告義務の有無から、グループ内取引の価格根拠の整理、TPD作成の要否判断まで、フィリピン税務実務に精通した専門家への相談をお勧めします。まずはお気軽にお問い合わせください。